南風通信

みなみかぜつうしん あちこち 風のように

人間の顔

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 子供の頃、ぼくが生まれた九州の海の近くの田舎町には、常識はずれのオモロイおっちゃんがけっこういた。

 漁師町の路地では、酒に酔って上半身裸のおっちゃんたちが、頭にタオルの鉢巻を巻いて、格闘技のような本気の騎馬戦をしていたりした。その騎馬にしがみつくようして、漁師のお母ちゃんたちが、夫たちの非常識を止めに入ったりして賑やかだった。馬鹿げた事のように思うけど、生活を懸命に生きる庶民のいる光景だった。

 あの町を歩く時はちょっとおっかなかったけど、日に焼けた男たちの明るい笑顔は、男らしくて味わい深かったと、少年のぼくには記憶されている。ああいう「いい顔」をした大人の男を、すっかり見なくなったと思う。

 

「いい顔」と言えば、むかし観た映画「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」というドキュメント映画に出ていた、キューバの老音楽家たちは皆、「いい顔」をしていた。自分の手足で、生きる事に格闘してきた者の顔だった。音楽家である前に、「人間」である男や女たちの顔だ。

 

  人生で為になることを、学校の外で学んだ人の顔は良い顔だ。生きる力が溢れている。

人生で為になることを (若い頃は、何が為になるのかが分からないものだ) 学校の外で教えてくれる人、学べる場所がなくなったように思う。ぼくが知らないだけかもしれないけど。

 

 まあ、最近はいろいろな事があって、世の中に元気がない。事が起きる度に、頭の良い顔をした人達が対応策を矢継ぎ早に打ち出している。それを見聞きしながら、ぼくはその効果を期待していようと思っている。

だけど、その対策を打ち出す人たちの顔にも元気が無いように思ったりする。元気というか、格闘する生活者の「生き抜いてやる」という信念ようなものが。

 

 改めて思うのだけれど、利益ばかりを追い、効率を極めるばかりの世の中は、意外に脆いものだなと。

 今、無自覚の内に皆が本当に求めているものは、血が通って、温かで、幸福な人間の生活ではないだろうか。本当はそれを求めていたのに、何かに絡め捕られて、本来の目的を忘れてしまっているのではないだろうか。そして、そんな世の中に必要なのは、経済的効率よりも、信念や、哲学なのではないかと思うこの頃なのだ。

 

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