
それほど村上龍の小説を読んできたわけでもなく、熱心な読者でもなかったのだが、この小説家の訃報を目にして以降は、自分のなかに村上龍が居座り続けている。
SNSに関連の動画やコメントが流れてきて、それらを眺め続けているせいもあるのだろうが、そうとも言えないところがある。
図書館で借りてきた、現在のところの最新刊である「ユーチューバー」を読んで少し驚いた。これまで、社会を独特の視点で俯瞰したような長編が多い印象の作家が、まるで社会に興味を失ってしまったかのような物語を書いていたからだ。自身を想起させるような年老いた大物作家が、過去の女性遍歴を語るというストーリーは、「こんな小説を書く人だったか?」という違和感を抱かせた。
常に社会を注視しながら、その底流を流れる人間の意識と感情を独特な手法で発現させてきた作家は、晩年に社会への興味を失ってしまったかのようにみえた。そして、その代わりに視線は作家自身の内面へ向かいつつあったのだろうか。老作家は、書くことがあったとしたら、この先どんな物語を書いただろうか。村上龍は、ここからが一番面白かったのではないだろうか。
SNSでこの作家の過去の動画を見ていると、そこに九州人の面影を見るようだ。反骨心と劣等感。社会の主流派との戦いで、自分の立ち位置を見出し続けたようにみえる。このような人は令和の世の中ですっかり見なくなってしまった。それが寂しく、この作家の喪失感を強くする。
なんとも息苦しいような世の中で、自由に生きることを選び続けたような作家が逝った。何軒かの書店を覗いてみたが追悼のPOPは見当たらず、特設コーナーもなかった。それどころか村上龍の作品は、巡ったどの書店にも一冊も置いていなかった。カンブリア宮殿が放送されない地方都市では、村上龍はとっくに過去の人なのかもしれない。
唯一、県立図書館で追悼コーナーを見かけたのが、もの悲しかった。そこで借りてきた「半島を出でよ」を今読んでいる。メルカリで買った中古の「MISSING失われているもの」、「シックスティ・ナイン」と「すべての男は消耗品である」も手元に届いた。坂本龍との往復書簡集「友よ、また逢おう」や鼎談集「EV cafe 超進化論」もやがて届く。
熱心な読者でなかった自分が村上龍について、こんなにも喪失感を味わうことになるなんて、想像もしないことだった。
























