学生の時に読んだ村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読み返している。かつては、この作家の新刊が出るたびに単行本を買って読んだものだが、いつ頃からかこの作家の小説を面白いと思えなくなった。最後に新刊を買って読んだのは「海辺のカフカ」だったろうか。
改めて読んでみると、ストーリーは全く覚えていなかったのだけど「いるかホテル」や「羊男」などのキーワードは朧気に覚えていた。中でも特に記憶に残っていたのは「高度資本主義社会」という言葉が、作中に何度も出てきたことだ。
2019年の今、1988年に出版されたこの小説を読んでみると、ポップな幻想小説のようでいて、意外にも、当時の時代を的確に表した作品で驚いた。
思えば「ダンス・ダンス・ダンス」が世に出た年は、日本はバブルの真っただ中だった。
この頃、まさに「高度資本主義社会」を形成しつつあった日本は(作中で言われるほど洗練されたものではなかったかもしれないが)、国や企業や市民を巻き込み、天界へ駆け上がるつむじ風の様相を呈していたように思う。しかし、その翌年にバブルがピークを迎え、その後崩壊した事もあって、この小説は余計にシンボリックだ。
主人公の「ぼく」は、フリーのライターとして生活の糧を得ながら、「それなりにまっとうに」暮らしている34歳の男だ。結婚はしたが妻はある日突然家を出ていった。そんな彼の仕事は、美味しいお店を取材し雑誌で紹介記事を書く事だ。
彼はとても丁寧に仕事をする男で、「下調べと綿密なスケジュールの設定」により、とても効率的かつ真摯に仕事を行う。
しかし、彼は自分の仕事を好きではなく、自分がやっている事は何の意味も無い事だと思っている。そして自身の仕事について次のように語る。
「雑誌に出してみんなに紹介する。ここに行きなさい。こういうものを食べなさい。でもどうしてわざわざそんなことしなくちゃいけないんだろう?みんな勝手に自分の好きなものを食べればいいじゃないか。そうだろう?」
「そしてね、そういう所で紹介される店って、有名になるに従って味もサービスもどんどん落ちていくんだ。十中八、九はね。需要と供給のバランスが崩れるからだよ。それがぼくらのやっている事だよ。(中略)何かをみつけては、それをひとつひとつ丁寧におとしめていくんだ。真っ白なものをみつけては、垢だらけにしていくんだ。それを人々は情報と呼ぶ。生活空間の隅から隅まで隙を残さずに底網ですくっていくことを情報の高度化と呼ぶ。そういうことにとことんうんざりする」
彼はそういった自分の仕事を、「文化的雪かき」と揶揄する。情報さえも高度資本主義社会に組み込まれ、消費されているのだ。
1980年代が「情報の洗練化」された時代だとすれば、インターネットやSNSが発達した今の時代をなんと表現すればいいのか。「SNS映え」が流行語になる昨今では、みんなこぞって「雪かき」をしているのかもしれない。もちろん僕も。
「高度資本主義社会」については、こんな記述もある。
作中に出てくる中学の同級生は、「経費を使って」高級外車に乗り、分厚いステーキとサラダを食べ、高級コールガールと寝る。そして、「クリーンでぴかぴかな領収書」を受け取る。
「経費」はお金でさえないという。使うことが義務でさえあるようなものなのだと。そして、それが「高度資本主義社会」なのだと。
しかし、そんな生活をしながらも、自分が本当に求めるものは「みんなぼくの手の指の間からするっと逃げていく」のだ。
これを書いていて、ふと「グレート・ギャッツビー」を思い出した。全てを手に入れたにも関わらず、本当に欲しいものが手に入れない男の悲劇。村上春樹が影響を受けたと公言する物語だったと思う。
社会が1つの方向へ向かって 怒涛のように突き進み始める時、その中に組み込まれない人間は非国民のようにに扱われる。これは、もちろん戦時中だけの事ではない。社会が大きな曲がり角を曲り、それから迷いを振り切るかのように突き進み始める時には、いつだってそのようなものだ。国でも企業でも。
主人公が警察に取り調べを受けるシーンでの刑事のセリフが印象的だ。
「なあ、今は1970年代じゃないんだよ」反抗的な態度をとる「ぼく」に刑事は言う。「ああいう時代はね、終わったんだよ。それで、私もあんたもみんなこの社会にきちっと埋め込まれてるの。権力も反権力もないんだよ、もう。誰もそういう考え方はしないんだよ。大きな社会なんだ。波風立てても、いいことなんか何もないのよ。システムがね、きちっとできちゃってるの。この社会が嫌ならじっと大地震でも待ってるんだね。穴でも掘って。」
80年代から随分の時間が流れて、日本は更に高度にシステム化されている。それを「ソフィスティケートされた社会」と呼ぶのだろう。野良犬が町中から消え失せ、リードに繋がれた愛玩犬ばかりが澄まして歩くようなことだ。そして、そこから逸脱する事は、今の時代には更に困難になっているようだ。
更に「高度資本主義社会」について。
上巻の最後の方で登場する、ある才能の枯渇した作家が言う。
「なんでも金で買える。考え方だってそうだ。適当なものを買ってきて繋げばいいんだ。簡単だよ。その日からもう使える。(中略)こだわっていると時代に取り残される。小回りがきかない。他人にうっとうしがられる」
数十年ぶりの再読で、この作者の「時代を読み取る力」というようなものを、再発見したように思う。
ぼくが、ある時期からの(意外に社会派の)村上作品を面白く思えなくなってしまったのは、実社会があまりにも複雑になってしまった為なのか、それとも作者の認識と実社会が乖離してしまったのか、この作者の「読み取る時代」というものに簡単には同調出来なくなってしまったかもしれないな、と思った。
もちろんこの小説は単なる社会批評の物語ではない。主人公(ぼく)の生活のように、深く内省的な哲学の物語でもある。そのシンボルであろう「羊男」に繋げられ、導かれるように物語は下巻へと続くのである。
久し振りの初期村上作品は、刺激的であった。