南風通信

みなみかぜつうしん あちこち 風のように

街の記憶 19

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写真家の森山大道さんは、もし25歳の時の自分にばったり会えたらなんて言ってあげたいか?と問われて、こう答えたという。

 

「いいから撮れよって(笑)。ツベコベ、ゴニョゴニョ、ブツクサ言ってないで、一枚でも多く撮りなさいよ。いいから、はよ撮りに行け、と言いたいね、ホント」

 

ストリートスナップで、通りの電柱から電柱の間でフイルム一本撮った(三本だったかな)という逸話もある方だから、この言葉はさもありなんといったところか。

 

そんな訳で最近は、オロオロ考えずにシャッターを切る回数を増やしている。そんな中で何か見えてくるものがあるのか、ないのか。撮るのみだ。

 

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うりずん

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相手の事を思って身を引こう、なんていう美意識は、昭和の演歌の中くらいにしか無くなってしまったのかなあ等と思う午後を過ごす。

 

欲しいものが欲しい。もっと欲しいものは、もっと欲しい。

複雑に巧妙で洗練された資本主義社会に生きる僕らは、空気を吸うように欲望を呼吸していて、自分に正直だ。そういう時代なのかも。

 

窓の外は光に溢れていて、流れてくる風は爽やかで心地よい。つまらない思念を置き去りにする。ああ、なんていう素敵な午後だろう。

 

沖縄の言葉で、春分の日から立夏の間の気候の良い季節の事を「うりずん」と言うらしい。今日はまさに「うりずん」な一日だ。

私的不定期名曲選『この曲もえーやん!』㉛  West End Girls / Pet Shop Boys


www.youtube.com

 

ペットショップボーイズのこのお洒落な曲は、80年代のTVコマーシャルで流れたりしていて、とても洗練されているようなんだけど、その歌詞はちょっとシニカルで詩的だ。

 

邦訳はこんな感じ。

 

時々君は死んだ方がマシだと思い
手に銃を取って
頭に向ける
椅子を蹴り上げてテーブルをぶち壊し
君はあまりにも情緒不安定で気でも狂ったのかと君自身でも思う
ウエスト・エンドの街のレストランで
警察が呼ばれて気の狂った男を取り囲むが
男はウエスト・エンドの街のいかがわしいバーまで
地下を走って伝っていく

 

数え切れない影たちが囁く声
ポスターには様々な顔があり
選択肢が多すぎる
「もしも」「いつ」「何故」「何」
君はいくら手にいれたのか?
もう手に入れたのか?
今手に入れるのか?
もしそうならば何回手にいれたのか?
困難な選択と楽な選択のどちらを選ぶのか?
(君はいくら必要なんだ?)

 

世界の果てのウエスト・エンドの街に
イースト・エンドの少年たちとウエスト・エンドの少女たちがいる
世界の果てのウエスト・エンドの街で
イースト・エンドの少年たちとウエスト・エンドの少女たちが出会う
ウエスト・エンドの少女たち

 

このギャップは、職場のお洒落な新人イケメンの趣味が、爬虫類の飼育だったようなカンジ?ちょっと違うか。

 

僕が英語がからきしなので、勝手にギャップを感じているだけで、世界中の英語圏の人たちは、この歌詞の意味のままにこの曲を支持したんだな。そう思うとずいぶん暗い曲が人気になったものだと思う。当時の世相がこんな空気感だったのかもしれない。

でも、実は、英国から出てくるこういった意味ありげな歌詞の曲は、ぼくの好みなんだなあ。

シーサーの日と妻のお買い物

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「4月3日はシーサーの日だそうよ」

土曜日の昼下がり、ツマがぽつりと言いました。

地元の情報誌「おきなわいちば」を愛読し、地元情報満載のTV番組「あまくま歩人」を熱心に視聴するツマは沖縄情報通です。

そんなツマが、こんな風にぽつりと話しかけてくる時は、だいたい「行ってみたいんだよね」という事なのです。

「4月3日?今日じゃない。行ってみる?」

僕はツマに合わせてそう応えます。もうこの時点で行くことは決まっているんですけどね。我が家の場合は。

 

那覇市壺屋のやちむん通りは、沖縄陶器の故郷のひとつです。那覇市の戦後復興は、この壺屋でのお茶碗作りから始まったと言われています。毎日ごはんを食べる為のお茶碗づくりに、希望と活力を見出したのでしょうか。

 

この日のやちむん通りはシーサーの日という事で、普段はなかなか見られないシーサー作りの実演が行われていました。シーサーは作る人に似てくるなんて言われているそうですが、その表情も様々です。ハリウッド版のゴジラのような怖い顔のシーサーもあれば、どこか人の良さそうな(?)シーサーもあったりします。

この日はイベントらしく、通りの其処此処に大小のシーサーが置いてあったりして、シーサー尽くしの様相でした。

 

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そして、ツマにはもう一つの目的があります。それは、最近とても気に入っている作家さんの陶器を見に行くことなのです。金城有美子さんという陶芸家の作るカップやボウル、お皿などにツマはすっかり魅了されているようです。

ツマは、本来あまりモノに執着しない人なのですが、珍しいことにこの作家さんの陶器のことがとても好きなようす。

もともと、ここの陶器が好きでお店に通って眺めていたのですが、ある日、店員さんだと思って話していた女性が、たまたまお店に来ていた作家さんご本人だったことがあったそうです。その金城さんの気さくでありながら、奥深さと聡明を感じさせる人柄にも魅了されたとか。それ以来、2週に1度はこのお店を覗いているんじゃないでしょか。これは、本当にツマにしては珍しいハマりようです。

 

この日はお店の人に許可を得て、写真を撮らせていただきました。そして、ツマは以前買おうとしていたのに、売り切れてしまっていたカップと同じ柄の新作を購入しました。我が家のカップはいくつ目だ?と、思ってしまいます。

でも、実は僕もこの作家さんの器が好きで、次回はお皿を買おうと目論んでいたりするのですが。

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何かを好きになるのは、良いことだと思います。それは、生きる力を強くしてくれるようです。そして、やさしくて温かみのある器があるだけで、日常がとても豊かになるものですね。

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生きる

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沖縄県うるま市 2021年3月

 

 

NHKで3月7日に放送された「未来への手紙2021 10年目のビデオレター」という番組をみた。

 

東日本大震災で被災した子どもたちが被災直後にビデオレターを撮っていて、10年後、成長したその子供たちを訪ねるというドキュメントだった。

 

失った家族や故郷への思い、復興への願いが込められていたそのビデオ撮影から10年。20歳前後に成長したその子たちの現実を、再びカメラは映し出していた。

 

僕はこの番組を見ながらずっと泣いていた。なんでこんなに涙が出るのか分からなかった。それほどに泣いた。短くはないその番組の放送時間中、ずっと泣いていた。

 

九州生まれで、東日本大震災当時も九州に暮らしていた僕は、東日本大震災の事を何も知らない。被災後のこの10年を生きてきた人たちがたくさんいる事を、改めて思った。

 

ここから先の文章を、書いては消し書いては消しを繰り返した。やっぱり僕には、このテーマを書くことは難しい。

 

ただ、このTV番組を見ながら「この十年を、僕はちゃんと生きて来ただろうか」と何度も自分に問うたのだった。

楽しい時(FUN TIME!)


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お正月に、きょうだいで集まる時用に「キャプテンリノ(巨大版)」というボードゲームを買ってあった。結局、コロナのせいで正月の集まりは中止となり、このゲームはパッケージもそのままに置かれたままになっていました。

 

それが、この土日で九州からきょうだい達がやって来る事になって、ようやっと、このゲームの出番となったのです。宿泊先のホテルまでは、車に積んで持っていったのですが、このボードゲームは結構重たくて、かさばって、持ってきた事を少し後悔したりもしたのでした。

 

日中はみんなで、沖縄本島北部の観光地を回りました。夏を思わせる海岸線を散策したり、のんびりと水牛車に揺られたりと、沖縄の観光を満喫しました。

ホテルに投宿となった時も、バッグやカメラを担ぎつつ、この重くかさばるゲームを手に抱えてチェックインするぼくを、きょうだい達は少し呆れてたでしょう。

 

食事を終え、いよいよ「キャプテンリノ」の出番です。

このゲームは言ってみれば「ジェンガ」と「ウノ」を合わせたようなゲームで、順番に、紙で出来た壁と屋根でマンションの階層を積み上げていくといったものです。途中て崩れたら、その時に積み上げていた人の負け。そして、その時に手持ちカードが最も少ない人の勝ちになります。


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途中、カードの指示によりキャプテンリノというサイのキャラクターのコマを動かしたりしなければなりません。木製でちょっと重さのあるこのコマを上層に移す際には、紙で出来た高層マンションはグラグラと揺れたりしてスリル満点です。

 

最年少6歳のプレーヤーも大はしゃぎだし、大人達も普段見せないような表情で、一喜一憂大騒ぎです。

 

紙のタワーマンションは、高さ2メーターを超えて伸び続け、椅子の上から更に積み上げてゆきます。随分と傾いたところでツマの番となり、皆が、傾いた紙のマンションをツマが倒すシーンを予想しましたが、ツマは執念のクリア。ツマはこういうゲームに対して面倒臭がりなのですが、それを上回って負けず嫌いなんですよね。

 

結局、いもうとが触れた瞬間にマンションは派手な音を立てて倒壊し、手札の一番少なかったツマの勝利となりました。

昼間歩き回って、クタクタの筈の最年少プレーヤーも、最後まで真剣勝負してました。


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こんなに笑ったのは、いつ以来だろうと思う夜でした。

ぼくは、プロレスの味方なのだ

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ぼくは、かなり年季の入ったプロレスファンだ。

今日のAbema TVで、武藤敬司VS清宮海斗のタイトルマッチを大いに楽しんだ。

 

日本のプロレスの源流は力道山に遡るが、そこからアントニオ猪木の系譜とジャイアント馬場の系譜に分かれている。

 

めちゃくちゃ大雑把に言えば、武藤敬司は猪木の系譜であり、清宮海斗は馬場の系譜だ。(プロレスファンの異論は大いに認める。武藤はその枠に収まりきれないだろう)

 

二つの系譜の魂は、時代と共に色合いを変えながらも、多様化が進んだプロレス界で、今も流れ続けているように思う。そう思うと、嬉しく感じてしまう。

 

今回の防衛戦は、58才のチャンピオンと24才の挑戦者の戦いだった。

 

58才のチャンピオンなんて、他の格闘技ではちょっと考えられないだろうけど、プロレスならば有り得るんだな。これが。

 

プロレスは、観客に魅せながら戦い、そして、説得力を持たせて勝たなければならない競技だと思う。

 

今回、その魅せる力と、勝つ説得力の両方を58才のチャンピオンは持っていたのだ。これは凄い事だと思う。この老獪なチャンピオンに、勇気をもらったおじさんたちは多いのではないかなあ。

 

今、放映中の宮藤官九郎のドラマでも、主人公の長瀬智也はプロレスラーという設定で、少しプロレスが盛り上がっているのかもしれない。

 

戦後復興の街頭テレビで、外国人レスラーにチョップを叩き込む力道山の姿に、当時の人々が勇気をもらったという。今の閉塞感のを打ち払うには、プロレスという分かりやすいエンターテイメントも良いものだと、プロレスの味方である僕は思うのだ。


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