南風通信

みなみかぜつうしん あちこち 風のように

人生のヨロコビ

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ずいぶん昔、少年だった頃、地元を流れる大きな川の河口に、当時としてはとてもシックな大人の雰囲気のあるフレンチレストランがオープンした。

その頃、同級生のA君と、よく河原の土手に座って芝居の練習を眺めていた。当時、劇団とか芝居とかがブームだったのだと思う。つかこうへいの劇団の地方分派のような集団がその河原でいつも練習していた。当時のぼくらは、将来自分が何をすべきかも分からないまま、ただ、ぼうっとそれを眺めていた。そして、ぼくらの指定席の背後にそのレストランはオープンした。突如現れた落ち着いた色の外壁には、川に向かって大きな窓ガラスがはまっていて、ぼんやりと薄暗いガラスの奥の店内に、淡くランプの橙色の光が浮かんでいた。

 

「いつか、大人になったらあの店でフランス料理を食べたいなあ」

「そうやなあ、ネクタイを締めてジャケットを身に着けてあの店に行こう。そして、フルコースを食べるんや」

 

田舎の少年たちはそんなことを約束しあった。

その頃、彼と約束したことが二つあった。

1つはそのレストランでの食事。もう1つは二人でパリダカ―ルラリーに出ようというもの。思えば、長閑な時代で、ぼくらは人生の夜明け前だった。

 

それから数年経ち、約束の1つは実現した。その後ぼくらはその町を離れたが、ある夏、社会人になったばかりのぼくは地元へ帰ってきた。ぼくは初めて買った中古の黒いスポーツカーを自慢げに乗っていた。その車を走らせて地元に残った友人のNとそのレストランへ行った。ネクタイにジャケットではなく、Tシャツにジーンズ。フルコースではなくランチメニュー。でも、取り合えず目標は達成したと思った。劇団の練習をともに眺めていたAは、海外に住んでいて一緒にその店を訪れる事は叶わなかった。

ぼくと友人Nは、食後にその店の洒落た看板と一緒に写真を取り合った。

 

それから、更に随分と時間が経ち、ずっと地元を離れていたぼくは地元に帰って仕事をする事になった。そこで、不思議な事に、仕事を通じてそのレストランのマスターとのお付き合いが始まったのだ。

ある時、マスターに話を聞くことがあった。東京の某有名ホテルのレストランで修業をした後に、地元に戻って夫婦二人でお店を出したらしい。その地方都市で、本格的なフランス料理のお店が開店したのは、そこが初めてだったとか。二人でがむしゃらに働いて、やがて「河原のシックなお店を」建てたのだそうだ。

ぼくが、大昔に友達とこのお店に憧れていた事、新社会人の頃にお店でランチを食べたを事お伝えした。それを聞いたマスターは「そうかあ」と、目を細めた。ぼくは用意してあったあの写真、ランチを食べた後に友人Nと取り合った写真を取り出した。写真の中でお気に入りのサッカーチームのロゴが入ったTシャツを着たぼくが、お店の吊られた木製の看板の下に立っている。そして、その奥に当時マスターが乗っていたという古い型の白いトヨタクラウンが写っていた。

マスターは、嬉しそうにその写真を眺め「懐かしいなあ、懐かしいなあ」と、何度も繰り返した。

数年前に奥様を亡くされ、今は一人で細々とやっているらしい。それでも、常連は地元の名士ばかりだ。

ある年、嫁と二人でコース料理を食べた。客はぼくらのみで、マスターはグラスワインをサービスしてくれた。デザートをサーブした後、マスターも厨房から出てきて3人で話をした。この日も、ネクタイにジャケットではなかったけど、コース料理を食べるという約束は果たされたと思う。

ぼくは、今、再び地元を離れている。ここ高知はとても素晴らしい所だ。ふと思い出す。今もマスターはあのお店の厨房に立っているだろうか。もう随分お年のはずだ。いつか、もう一度コース料理を頂く約束をしておけばよかったと思う。その時には、今度こそネクタイとジャケットを身に着けてお店のドア開くのだ。