南風通信

みなみかぜつうしん あちこち 風のように

東洋のマチュピチュ・別子銅山ツアーに行く

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GWは九州から四国へ親戚が遊びに来るという事で、アチコチへ出かけて物見遊山といいますか100%観光を楽しもう、という事になりました。

 

ぼくは元々あんまり観光地というものが好きではなかったように思います。なんでかなーと考えてみますが、その明確な理由が見当たりません。

なんとなく思い当たるのは、若い頃よく読んでいた「椎名誠」のエッセイの中に、観光地でイチャイチャしながら歩いているカップルに対して「ケッ!」と舌を打ちスルドイ視線を向ける、というようなもの多くがあったと思うのですが(若い頃のシイナはやたらトンガっていた)そんな描写に田舎の体育会系少年だったぼくはシンパシーを感じたのを憶えています。

たぶん、そんな成り行きでなんとなく観光地に対して「ケッ」という若きシイナのような感情が居座っていたでしょう。そしてよく考えてみれば、そこまでの嫌悪感をもって観光地を嫌っているわけではありません。実際、ぼくは物見遊山が嫌いではないのです。

 

そんなこんなで、今回は、愛媛県新居浜市の山間部にある別子銅山をめぐる事にしました。

 

NHKの「ブラタモリ」という番組が好きでよく見ますが、ただの街歩きも歴史や地質などの専門家にガイドしてもらうと、知的冒険へと転じてゆく。ぼくは観光地のガイドが好きです。彼らの解説は知的好奇心を満足させ、同じ景色を奥深く見せてくれるのです。ここ別子銅山にも観光ツアーがあるという事で、ツアーに申し込むことにしました。

 

道のえき「マイントピア別子」まで車で走り、ここからツアーバスに乗り換え、東洋のマチュピチュとも呼ばれる、別子銅山 東平エリア(とうなるえりあ)へ行きます。

ちなみに、別子銅山と聞いて「住友財閥」と思った方は、なかなかの通です。この別子銅山は江戸時代から昭和48年まで280年以上銅を産出し、住友財閥の発展の礎となったものなのです。

 

株式投資などを行う方はご存知かもしれませんが、東証上場の住友金属鉱山という会社があります。この会社は証券マンの間では「ベッシ」という名前で呼ばれています。勿論、ここ別子銅山に由来しますが、何故このように呼ぶかといいますと、同じく東証上場企業で住友金属工業という会社がありまして、聞いた方が混同してしまわないようにという事です。この住友金属工業は「スミキン」と呼ばれます。

ともあれ、集合場所の「マイントピア別子」へ到着しました。

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ここからツアーバスに乗り30分ほど山を登ります。本日のガイドはとても実直そうな井上さん。運転手兼オールマイティは松本さん。

 

バスで登る道路はとても狭く、二台の車が行き違うのがかなり難しいほどです。でもツアーバスなら大丈夫。バスの100Mほど前を先導のワゴン車が走っており、対向車が来ると行き違いが出来る場所を確保してくれます。そういった意味でもツアーバスに任せた方が安心です。

 

ところがツワモノがいまして、ツアーバスのすぐ後ろを一般の観光客の車がまるでコバンザメのようにくっついてきます。こうすれば対向車が来てもバスと一緒に進めるのです。賢いね!

ガイド井上さんの実直な声で説明を受けていると30分ほどで東平エリアへ到着です。

今日は良い天気。5月にしては暑すぎるくらいです。もう夏が近い事を思います。

資料館のような建物へ一行は入っていく。

ここで往時の生活や風俗や歴史などを、ジオラマを使って分かりやすく説明してくれます。

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最盛期は5000人ほどがこの銅山で暮らしたそうです。小学校・中学校もあったそうで(確か住友が設立したとか聞いたような・・)他に2000人収容できる娯楽施設があったそうです。また、住友が国内外の要人をこの銅山へ招いた時に使う迎賓館のようなものもあったとか。今はもうそれらの建物は残っていないようですが、道路脇の山の斜面に目を凝らすと建物の基礎が残っていたりします。

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説明を受けて建物の外へ出ると、ああ眩しい!

初夏の強い光を浴びながら、一行はいよいよ「東洋のマチュピチュ」へ向かいます。

 

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この大きなレンガ壁の施設は「貯鉱庫」だそうです。鉱石を一時的に保管していたものだとか。

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これらの煉瓦もすべて住友グループの自前だとか。よく見ると長い煉瓦と短い煉瓦が交互に積まれているでしょう。こういう積み方をイギリス積と言うそうです。

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本当のマチュピチュをよく知りませんが、上の写真などはそんな感じでしょうか?

東平エリアを離れ、バスでマイントピアへ戻ります。ツアー客は暑い中を歩き回ったせいでややお疲れ気味。ガイドの井上さんはそんな時にもツアー客に楽しんでもらおうと、なぞなぞを沢山出題して盛り上げてくれました。

さて、マイントピアに戻って一服してから、今度はトロッコ列車に乗って「観光坑道」へ向かいます。

列車が来ると親戚の2歳の子供は大喜びです。

清流の流れる渓谷にかかる赤い鉄橋を列車で渡ります。結構楽しい。

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列車を降り、いよいよ坑道へ。ここは長さ333メートルの旧火薬庫だそうです。巨大ジオラマや映像で江戸時代から明治・大正・昭和と時代ごとに再現したもの。外が暑くて女性陣はバテてましたが、坑道内はひんやりと涼しく生き返るようでした。ここは子供が遊べる施設もありました。

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のんびりと回って約3時間。いかがだったでしょうか。

別子銅山の歴史は住友グループの歴史であり、また、日本近代化の歴史でもありました。

海抜1000メートルの険しい山中で始まった採鉱は、掘り進め、やがて最終的には海抜マイナス1000メートルに達したそうです。そして坑道の総延長は700キロメートル。日本近代化を進めた、時代のエネルギーを感じました。

季節も良かったのですが、かつての近代化のシンボルが今また森に帰ろうとしているのを目で見て体感し、とても良かったと思います。

まだまだ知らない事が沢山あります。さて、次はどこへ行こうか。

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龍馬の手紙

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司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んだのは、30歳になるかならないかの頃だったと思う。ぼくは学生時代から乱読で様々なジャンルの本を読んでいたが、何故が歴史ものを敬遠していた。なぜ30歳にして「竜馬」を読んだのかは思い出せない。

しかし、遅くになって出会った「竜馬がゆく」は、全巻を一気読みさせるほど面白かった。これがきっかけとなって司馬遼太郎を読むようになった。龍馬は一時期のぼくのヒーローになった。

京都へ旅行に行った時は寺田屋と池田屋を訪れ、龍馬へ想いを馳せた。長崎に行った時は亀山社中を訪れ、龍馬も見たであろう長崎の街を眼下に見下ろした。

桂浜の龍馬像を見てみたいと思いながらずっと来れずにいたが、縁あって転勤で今高知にいる。勿論、桂浜には真っ先に向かい龍馬と対面する事ができた。面白いのは、高知の地元の人たちの中に、龍馬よりも中岡慎太郎を評価するものが多い事だ。曰く「船中八策に代表される龍馬の政治思想は、中岡が龍馬に授けたものである」と。また「龍馬は行動力の人であり、中岡は頭脳の人である」と。北川村には中岡の生家がある。まだ訪れていないが、是非行ってみたいと思う。

そういえば、20代の後半に鹿児島に住んだことがある。薩摩人の西郷びいきは、土佐人の龍馬びいきを大きく上回るように思う。しかし、それ以上に薩摩人の大久保利通ぎらいが印象に残った。「大久保は裏切りもん。大久保のせいで西郷さんが死んだ」

 

2017年3月4日に志国高知幕末維新博が開幕した。そして同日、高知城歴史博物館もオープンし多くの人でにぎわった。この高知城歴史博物館のオープン直前に、全国紙で紹介された龍馬に関するニュースがあった。それは、龍馬が暗殺される5日前に書かれた手紙が発見されたというものだ。

レプリカでなく現物が一般公開されるのは3月20日までという事で出かけた。

真新しくモダンな建物の3階に龍馬の手紙はあった。はじめて「竜馬がゆく」を読んでからずいぶん時間が経ち、自分の中の龍馬に対する思いも少しづつ変わっていったのだけれど、こうしてまた龍馬の息吹に心が感応する自分に気付く。現物の手紙の文字には間違いなく龍馬の心が宿っていた。

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ある意味龍馬は自由で革新的な若者の象徴だ。龍馬に出会ってから随分の時間が経ったが、今また龍馬に想いを馳せる。

 

岩崎弥太郎の生家へ行く

 高知市の東方に約40キロ、車で小1時間も走ったところに安芸市という町がある。阪神タイガースのキャンプ地としても知られる静かな町なのだが、この静かで小さな町に三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の生家がある。 高知にやって来て岩崎弥太郎の生家を一度見てみたいと思った。

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 数年前、NHK大河ドラマで俳優の香川照之が岩崎弥太郎を演じたが、その時の弥太郎は土佐の生家のやたら埃っぽい板の間で、生活の為に縄を編んでいた。そして「あばら家」風のセットの中で香川の演じる弥太郎は、いつものやたらとクドイ芝居で自らの境遇の惨めさを大げさにを嘆いていた。

 

 実際、弥太郎は「郷士株」(下級武士の株)を他家に売った地下浪人(じげろうにん)の家に生まれている。やはり経済的に困窮する事もあったのだろう。家は庄屋の支配下にあった。にもかかわらず弥太郎は「元郷士」という気位がとても強かったそうだ。また、幼少の頃より漢詩の才を発揮したそうで、10才余りの頃には他人に漢詩を献じていたらしい。

 

 岩崎弥太郎の生家は無料で一般公開されていて、小さな案内板が所々に出ているのだがちょっと分かりづらい。車でウロウロと迷いながら、まわりに何もない所にポツンと佇む「岩崎弥太郎生家」にようやくたどり着いた。

 

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しかし、調べてみると彼の人生は正に波乱万丈である。幕末の日本、そして土佐藩の混乱の波に翻弄されつつ、その中を力強く泳ぎ渡った人物なのだろう。

 弥太郎が22歳の頃、庄屋一味に父親が殴られて重傷を負う事件が起こる。この件で父親は理不尽にも投獄されてしまうのだが、弥太郎は父の冤罪を訴えて役所への抗議に日参する。しかし聞き入れられなかった事に腹を立てた弥太郎は「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によりて決す」と奉行所の門柱に墨で大書したのだ。その後弥太郎自身も投獄されてしまう。7ヶ月で釈放となったが、名字帯刀のはく奪のうえ村を追放となっている。

生家には幼少の弥太郎が眺めながら大志を膨らましたという、日本列島をかたどった庭石が残っている。彼はどんな思いでこの村を離れたのだろうか。

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 村を追放された弥太郎は、その後、土佐藩参政の吉田東洋の知己を得て表舞台へ出て行くのだが、ところで、この吉田東洋も激しい人で、江戸在任中に旗本を殴り土佐へ戻された経歴を持つ。弥太郎と出会ったのは土佐へ戻された後の蟄居中の事であり、村を追放され高知へ上って来た弥太郎と通ずるものがあったのではないだろうか。

 後に、藩政に復帰した東洋は、山内容堂の側近として土佐藩の改革を推進するが、この流れで弥太郎は外貨獲得と武器購入のために長崎へと赴き、龍馬と関わってゆく。そして龍馬亡き後、「世界の海援隊構想」は三菱商会へと引き継がれ、海運業で「東洋の海上王」 となり三菱財閥の礎を確立してゆくのだ。

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 ちなみに高知県内に三菱UFJ銀行はない。また、昨年11月、三菱UFJ信託銀行と三菱UFJ証券が高知から撤退していった。岩崎弥太郎の地元から三菱グループの看板を掲げる企業が去っていくのを見るのは感慨深いようにもある。

 しかし、世の中が変わって行こうと「三菱財閥の創始者 岩崎弥太郎」は、今も厳たる姿で、郷土安芸の地に立ち続けている。